『踊るよ。』chapter.4 -03

03.ホットワインの夜

 その夜。夕飯がすんだ途端、クリス氏はもう疲れたと言って風呂に体を引きずっていきべっちゃりと居間の机で眠り込んでしまった。お風呂と寝る支度を済ませたサツキさんは、もう仕方ないなあと言って、クリス氏は軽々と彼女に背負われ、彼らは早々に寝室にはいっていった。
 藻草さんはずっと難しい顔をしていてピリピリした雰囲気が此処まで伝わってきて、とてもじゃないが先程の話に触れられるような雰囲気ではなかった。いや、それは僕が甘すぎるんだろうか。わからない。僕は執筆のために部屋に戻る。するとノックの音がした。開けたら、イーファンが申し訳なさそうな顔で立っていた。
「……どうしたの?」
珍しくうつむいて、言いたいけど言い出せないそんな表情をしている。どうしたの……ともう一度僕が言おうとする間にイーファンは僕の両手に触れた。
「……、」
聞こえない。彼女の声にならないその声は聞こえない。僕はそこで察した。……父さん、いや違う……もっと別の方か……!
 一瞬で沸点があがり、僕は激怒した。自分のパソコンでイーファンにケチをつけてきたやつに連絡をつけようとするが無言で、必死にイーファンが止めてくる。
「イーファン!」
「やめてください……光さん……!」
「友達が傷つけられて黙っていられるか!」
「違うんです!」
「何が!」
「違うんです……私……私……!」
イーファンはほとんど泣きそうだった.僕はさらに激昂しそうになる。僕の友達をこんなにしたやつは誰だ!
「私、自分からここに残るって言いました……!」
脳にのぼっていた血が、急にザッと引いていくのを感じた。何も言えない。イーファンは必死に言葉を紡ぐ。
「本部長に、お前だけでも戻ってこいって言われました……だけど、私は……ここに残ると言いました……だから、」
「どうしてそんなことを!」
「だからもう少し……ここに居させてください……。」
イーファンは僕にそっともたれかかる。彼女からそんな事するなんて……。僕は震えそうになる体を必死に押さえつけ、なにかしなくちゃいけないと思う。
 けれど僕が手を伸ばすまもなくイーファンは離れていき、すごく悲しそうな笑顔で、そのまま背を向け僕の借りている部屋から出ていった。
 
 僕の決断が、彼女の運命をも変えてしまった。
 机の椅子に座り込み、しばらく呆然としていた。開いたノートパソコンの中にはなにの文字も書かれていない。僕は、僕は……。

 それから、どれくらいそうしていただろう。
 足先がすっかり冷えるほど寒くなってしまった室内の窓からは暗い外界がみえる。
 光なんて見えない暗い世界で僕だけがひとりっきり。そんな気がして悲しくなった。
 ベッドに入るならまず水場に行かなきゃ。ぼんやりと立ち上がり階下に降りようとしたらリビングに小さな光が灯っているのに気づいた。居間に行く。
 藻草さんが、今の机で酒を飲んでいた。
 月明かりと小さなランプに照らされた彼の横顔はひどく湿り気を帯びていた。
「……何してるんですか、」
僕に気づいたのか彼はこちらを見る。はあ、と一つため息を付くと彼は立ち上がり、もう一つのガラスのグラスを持ってきた。

 受け取ったグラスの中身はホットワインで、暖かくてシナモンやスパイスの香りがした。一口飲んだらはちみつの味がした。甘い……。
 きっと鍋でしこたま作ったのを魔法瓶に入れて飲んでいるのだろう。
 僕は少しずつ頂くが、藻草さんはペースが早くてかなり酔っ払っていた。
「……書くっていうことは……難しいことですよね……。」
藻草さんは笑う。
「小説なんて、紙とペンさえあればどこでだってどうやったって書けるじゃないですか……今時の人は完璧を求めすぎなんですよ……完成しきった、完璧な物語……そんなものどこにもないのにね……。」
「完璧?」
「ド田舎に住んでいていいことは、SNSが意味をなさないことです、ふふ。」
藻草さんの瞳は酔い過ぎで、どうにも潤んでいた。僕はその瞳を見つめることしかできない。
「『踊るよ。』……。」
ソファの上に片足を立てて、藻草さんはそこに体を預ける。
「あそこに、残してきた思い出が痛むんです……あなたを見ているとあの人の若い頃を思い出すな……全然似てないのに……こんなこと思っちゃいけないのに……私は変わっていくのに……あの人はわがままで……変わらなくて……本当にバカで……私はずっと、あの日に取り残されたままで……。」
そしてはあ、とため息を付くと、空になったグラスを机に置いてソファにもたれかかる。
「あの人……、変わってなかった……。」
ずび、と鼻を啜る音。
「父は……どういう人でしたか。」
藻草さんはクッションに埋もれながら天井を見やる。だけど、きっとどこか、ここではない何かを見ている。
「……あの人は、研修で出向していた編集者でした……。若い頃、私が勢いで彼の出向していた出版社に持ち込んだ『踊るよ。』を最初に見てくれた人で、私を最初に評価してくれた人だった……。」
あのころは、いつもお腹が空いていたなあ、と藻草さんはこぼした。
「それから、新人賞に出すことを勧められて、私は新人賞を受賞して……それから彼が担当編集になって……『踊るよ。』は大ヒットした……。」
「父さんが『踊るよ。』のプロデュースをしていたんだ。」
「そう……幸せだった……本当に幸せで。あの人は私を愛してくれたし……私もあの人を愛していた……けれど静さんは、カンパニーの後継者で、雲の上の人だったから……私たちが一緒になれる理由なんてどこにもなかった……わかってたはずだったのに……。」
藻草さんは涙ぐみながら酒をあおる。
「それから、あの人に見合いの話が来て、それから、どんどん性格が変わってしまって……私は罪悪感で何も書けなくなってしまった……それなのに、どんどん次を催促されるし、世間ではブームとか起きるし……私たちは何も進めていないのに……周りだけが盛り上がっていって、どんどん辛くなって……。」
酔えなかったが、酒と雰囲気の勢いもあったのかもしれない。僕は、ずっと聞けなかったことを聞いてしまった。
「サツキさんと、クリスさんって、もしかして……、……父さんの……。」
「そう……。」
彼はどろどろになった目で、どろどろに溶けた声で寂しそうに言った。
「二人はあなたが産まれる前に、あの人がどこぞの誰かと作った子……孤児院に送られるのを私が引き取って育てたんです……書くことから、逃げたかったから……。」
僕は冷え切ってしまったホットワインを見るでもなく見ながら、全然別のことを考えていた。
「でも、あの人は……こんなところまで追いかけてくる……眼の前に未だいる……。」
「……藻草さん、」
僕は立ち上がり、ソファの上でべろべろになっている藻草さんを見下ろす。 
「あなたにもう一度書いてほしいっていう気持ちは変わってないです。……僕、書きますから。書けるかわからないけど、小説なんて見るのも嫌かもしれないけど、待っててください。」
……さあ、もう寝ましょう。ちゃんとベッドで寝なきゃ。
 そう言って藻草さんを助け上げようとしたら、徐に腕を掴んで引き寄せられる。僕の長い髪が藻草さんの肌に落ちた。それは彼をますます蠱惑的に思わせた。
 僕の目に藻草さんが映ってて、僕の目にはきっと藻草さんが映っているだろう。
 時が止まったかと思った。
 しかし僕は優しく藻草さんの手を剥がして自分の髪の毛を治す。
「……酔いすぎですよ。」
藻草さんは、何もしなかった。ただソファに顔を埋めて、沈み込んでしまった。

 ふとリビングの入口の扉がギィと軋んだ。
 サツキさんが立っていた。
「……いじめられちゃうと、いつもこうなるの。」
彼女はいつもより足取り重そうにやってきて藻草さんを軽々と抱き起こした。
「……ごめんね。」
 小さく謝って、彼女は藻草さんを部屋に運んでいく。
 2人分のグラスが月明かりに反射して、光っていた。

つづく

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